雑記帳
--------目次--------
人間を人間らしくさせているもの
今、私たちは、人間の人間らしさの確認、ことばを替えるなら人間という動物のアイデンティティーの確認を
しなくてはいけない時期に来ていると思う。
禁固刑が刑になり得るのは人間から人間らしさを奪うからだと思う。
馬を馬らしくさせているものとは何だろうか?
豹(ヒョウ)を豹らしくさせているものとは何だろうか?
私たちは、何となく丘陵地帯の草原の中で走ったり、草を喰んだりしている姿を馬らしいと思う。
そんなイメージを持っている。
豹のイメージは、木の上から鋭い目つきで獲物に狙いを定めているといったところだろうか。
こんなイメージを私たちが持てるのも、テレビのおかげかもしれない。
あるいはそういうイメージづけをされていると言う危険性はあるかもしれないけど。
もしかしたら偏った見方なのかもしれないが、動物は、その動物らしくある時が一番充実しているのではないだろうか。
人間だって動物だ、人はどんなことになら、雑念が入り込む余地無く無心に取り組めるだろうか?
一つには、「人がネズミから人になり生き続けてくるなかで遺伝子に刻み込まれてきたこと」に沿ったことになら、
無心に取り組めるのではないだろうか。
人が社会を作ると、「遺伝子に刻み込まれてきたこと」に沿ったことは、一部は抑制せざるを得ないだろうと思う。
そのなかには社会の破壊につながることも含まれているからだ。
そうならない範囲で、人が無心に取り組めることに取り組むとき、社会を破壊しない範囲で、
いちばん人間らしくあることが出来るのではないだろうか。
豹の豹らしさが、木の上から獲物を狙うところにあるとしたら、
人間の人間らしさは、いくつかあると思うが、ひとつの大きな要素として、暮らしている環境の中で得られるものを得て、
手足を動かし、暮らしに必要な様々なものを作り、暮らしを築いてゆくということがあるのではないだろうか。
たぶん、これが人間の遺伝子に刻み込まれてきたことの重要な一部分であり、
おのずから無心に取り組むという状況につながりやすいことではないかと思う。
人間は豹のように獣肉を食うスペシャリストとしての能力も持っていないし、
山羊のようにそこらの草を喰むスペシャリストとしての能力も持っていない、
しかし、暮らしている環境のなかで材料を得て、暮らしに必要な様々なものを作り、
暮らしのなかで使うことによって、彼らスペシャリストたちと対等以上に渡りあって、全地球に生息域を広げてきた。
何のためにものを作るか?
何のためにものを作るのか?
ものを作るのは、そのものが欲しいからではなかろうか?
そのものを必要としている人がいるからではなかろうか?
そのものが暮らしを豊かにしてくれるからではな
かろうか?
無くても済むものを作ったって良い、
但し、どうしても作りだしたいという想いに動かされて作るのが良い。
無くても済むようなものを作ることに行き場の無い人をあてがって雇用を生み出すとしたら、
それはものづくりの姿としてどうだろうか?
誰かの無尽蔵の所有欲を満たさんとするようなものづくりは、
ものづくりの姿としてどうだろうか?
ものづくりをしようとするときの動機がものから離れていったのだろうか・・・
そして、以前見られたような質実剛健なつくりの製品は減り、一過性で華奢で修理も出来ないようなものが増えた。
今一度、何のためにものを作るかという点に立ち戻って考えても良いのではないか?
ものづくりは、雇用確保のためにするんじゃない、使うことに意味があるからものを作るんだ。
もう一つ言うなら、人間は、ものを作らずにはいられない遺伝子を持っていやしないか?
技術を失った人間の暮らし
野生動物がその持てる能力を活かして、その種の得意な環境のなかで生きるように、人間
が人間として、その持った性質を活かして生きるということは、つま
り、技術を生活に応用することではないだろうか。
技術を失った人間の暮らしは、野性を失った動物の暮らしと同じではないだろうか。
つまり、技術を失った人間の暮らしは、動物園のオリの中の猛獣の暮らしであり、牛舎に飼われた肉牛の暮らしではなかろうか。
技術と呼ばれているもの
私たちが人間になってから技術を使って何をなしてきたかを考える。
・・・・・考える。
それは、オギャーと産まれたときには備わっていない、産まれた後で習得する、生存のための能力を形作るものではないだろうか。
生存のための能力を形作るものであるなら、社会を形成する動物である人間としては、それは全ての人に備わっているべきものではないだろうか。
そしてオギャーと産まれたときには備わっていないものであるから、私達は、次代にそれを教え、伝えてゆかなくてはならないだろう。
私たちは、生存のための能力を形作るものである技術を、暮らしの周りから遠ざけないようにして、身の回りで活用して、伝えてゆかなくてはならないだろう。
ラバウルの摺り臼
ものと人間の文化史という本の臼の巻にラバウルの摺り臼の話が載っていた。
太平洋戦争中にラバウルにいた部隊で、食糧自給のために、米を作ったそうである。
しかし、いざ食べようにも、籾摺りが出来ない。
そこで兵隊のなかにいた、元桶屋やカゴ屋や大工などの知恵を技術を集めて、摺り臼をつくって籾摺りをしたそうである。
その当時ならば、人が集まるところには、技術があった。
桶屋が、木工屋が、鍛冶屋がいた。
土摺臼とか、木摺臼というものも、構造を知っていて、使いかたも知っていた。
今、無人島に、日本人の集団を送り込んだらどうなるだろうか?
運良く、稲が育ち、脱穀くらいはどうにか出来たとしても、はたしてその米は食べられるようになるだろうか。
作ることは壊すこと
何かを作ろうとしたとき、例えば、2mの材料1本を50cm×4本に切断
すれば、もうそれは2mの材料ではなくなる。
以前2mだった頃には、1m×2本になる可能性があったが、もう1m×2本にすることは出来ない。
2mの材料を壊して、50cm×4本をつくったのである。
ノコギリ、金鎚、ハサミ、ナイフなど、ものを作るときに使う道具の多くは、壊すことにも使うことが出来る。
少し観点を変えてみると、
新しい家を建てようとして、その場に古い家があれば、その古い家を壊さないことには、新しい家を建てることは出来ない。
誰も住んでいない原野に家を建てようとすれば、原野を開拓(壊して)して、家をたてるスペースを確保する必要がある。
家を建てるときに使う材木は、森林の木を切り倒して(壊して)得たものである。
新しい自動車を買う時には、古い自動車を売るか、解体屋に持っていくかして、新しい自動車の置き場所を確保しなくてはならない。
古い自動車が売られた事によって、中古自動車市場では、それよりもっと古い自動車の価値が下がり、他の人がこのもっと古い自動車を売ろうとすれば、値がつ
かないので、解体屋に行くこととなる。
紡績機械が作られ、利用されるようになって、人は糸を手紡ぎする技術を習得する機会をなくしてしまった。
冷蔵庫が作られ、利用されるようになって、人は保存食をつくり、食べる技術を習得する機会をなくしてしまった。
作るとは、今ある状態を別の状態に変えることであり、何かを作るとき、その裏側には必ず壊されるものがある。
作ることによって得る物があるが、その裏側には必ず失う物がある。
こんなことを常に考えていたら行動できなくなるから、常に考えていなくても良いと思うが、たまにはこんなことも考えたほうが良いのではと思う。
水車の回る原理、自動車の走る原理、動物の生きる原理
雨雲が山にかかれば、山には雨が降る
山に降った雨は河に流れ込み、海へと向かう
水車は山から海へと向かって流れる水から動力を取り出す
雨雲には太陽エネルギーがためこまれている
太陽熱で海が暖められると水は気化して水蒸気となる
水蒸気を多く含んだ空気が太陽熱で暖められると上昇気流となって高いところに昇り上空に雲が出来る
太陽エネルギーは低い海にあった水を上空の雲の位置までもちあげる
水車は太陽エネルギーで回っている
自動車はガソリンを燃やして走る
ガソリンは石油を蒸留して作られる
古代の植物が永い年月をかけて石油になったんだそうな
植物は水と二酸化炭素を吸収して、太陽光線を浴びて、自身の体をつくり、酸素を放出する
水素が酸素と結び付いた燃えない物質である水と、炭素が酸素と結び付いた燃えない物質である二酸化炭素に、太陽のエネルギーをつぎこみ、結び付いていた酸
素を離れさせて放出し、糖類などの燃える物(植物自身の体)に変換する
自動車は太陽エネルギーで走っている
人間などの動物は、植物や、植物を食べた動物を食べて生きる
植物は燃えない物に太陽エネルギーをつぎこんで燃える物(自身の体)と燃やす物(酸素)に変える
動物は太陽エネルギーで生きている
太陽では、水素が核融合を起こしているんだそうな
そのとき生ずるエネルギーは地球へと到達する
そのエネルギーは、
風を吹かせ、雲を作り、雨を降らせ、
植物を育て、動物のエネルギー源となり
あるいは自動車を走らせ
最後は熱となって宇宙空間に放出される
風も雨も植物も動物も、地球に届いた太陽エネルギーが宇宙へと放出されるまでの流れのなかにある